なんか、最近、勉強をしてもしても伸びてる感覚がない。いわゆる「停滞期」なのかな。オレ、もう成長しないのかな?限界なのか?
停滞期真っただ中だな。
く、認めたくない…ど、どうすれば…
停滞期の存在を認める
今回は「停滞期」にしぼって話してやろう。まず大事なことは停滞期の存在を認めることだ。
イヤだね、そんなのない方がいい!
停滞期なんて誰にでも訪れる前提に立つんだよ、この時期は何も進んでない気がするが、次の成長のための準備としてしっかりと根っこを張ってる状態でもあるわけだ。
そんなメンタルにはなかなかなれないね。どんどんあせってくるし、ここが自分の限界なのかな、とも感じちゃうもん。
んな女々しいこと言うなよな。一時的な成長の停滞の時こそ、自分を見つめるチャンスだ。今オマエが言ったように、自分の限界が見えたきたり、その限界を理解する過程でもあるわけだから非常に重要だ。そして、停滞期の意味をしっかりと理解しなければならない。
停滞期に意味なんてないだろ。こんな苦しいのはごめんだね。
オマエは停滞期が訪れる理由が全く分かってないようだな。
そんなのに理由があるのかよ?
ったく、じゃあ、説明してやる、停滞期っていうのは、スキルの土台がすでにできた証拠でもあるわけだ。
いやいや、逆だって、土台も何もなにも…できないこと、わからないことだらけの自分は停滞期真っただ中だと思うんだけど。
じゃあ、オマエ、Terima kasihと言われたらなんと返す?
Sama sama…っておい、バカにしてんのか!それぐらいは寝てても分かるわい!
だろ、上達しているとき、スキルってのはいわば「意識的」に磨かれるわけだ、停滞期にはそのスキルが「無意識」のレベルで定着していく。この段階で、すでに学んだことが自然にできるようになり、その定着は特に目立った成長に感じられることもなく、伸びてる感覚もない。だからいわば基礎的なことはある程度できているんだ。そこから新しい技術や知識を追加しても、以前のスキルが崩れない土台ができるってわけだからそこまで不安視する必要もない。
たしかに、土台ができてないか、と言われたら、いや、そんなことはないぞ…
そう、停滞期と成長期は学習を続けていれば交互にやってくる。停滞期は、自分の弱点やこれまでの学びで不足している部分を明確に認識できる時期でもあるんだ。
なるほど、それは確かに言えてるかもしれない… ただ、今は分からないことだらけで課題が山積みのような感じで押しつぶされそうなんだよ。
そんなものは語学学習における「成長痛」の一種だ。その間に知識をしっかりと醸成し、人間的な成長をするための時間だと割り切ればいい。とはいってもメンタル的に苦しくなってくるこの停滞期にしっかりと原因を探って、正しいアプローチをする必要ももちろんある。
停滞期の原因とは
停滞期の原因はだいたいが以下の3つに集約される
無意識にできることが増えた
学習を続けていれば「無意識」にできちゃうことが増えてくる。だから自分の進歩が見えにくく、気づきにくくなる。
目標のあいまいさ
長く勉強していけば、目標がなくなりがちになる。漠然と勉強をしがちな状態で学習を続けていても意義を感じられる停滞期から抜け出す気力がでない。
精神的疲労
自らを律し、学習を続けていれば疲れるもの。「やらなければ、でも、しんどい…」のループにいる状態は、学習に向かうどころか、嫌になってしまう。
この3つに心当たりあるだろ?
そう、その通り!全部そのまま今のオレじゃん。
今の時期を大事にしろよ。オマエは今、ようやく停滞期を素直に認めることができている。停滞期は、自分の弱点やこれまでの学びで不足している部分を明確に認識できる時期でもあるわけだ。
なるほど、これは学習が上手くいっている、成長期には感じられないことかもしれない。
進歩しているときは、勢いに乗ってその弱点に気づかないものさ。停滞期になると、細かい課題や課題の根本に気づくことができる。この気づきが次のステップに進むための重要な要素になるわけだ。
なるほど、わかるよ、わかるんだけど…やっぱりつらいな。できない自分を真正面から受け入れなきゃいけないし、自分への自信もどんどんなくなってくる感じ… もういっそのこと勉強をやめたい…とはいうものの、逃げ出したくもない。
ハハハ、まだまだ青いな~、「はらぺこあおむし」ぐらい青いわい!物事をもっと広く深く捉える力がないとこの先大変だぞ。学習の道の中でいろんな自分に出くわし、その都度人間的な成熟をするってもんなんだ。
人間的な成長
なんだよ、じゃあ、人間的な成熟ってなんなのさ。
成長が見えにくい中でも、少しずつ積み上げる努力を続けることだ。そうすれば、今の自分に一喜一憂することもなくなる。結果がすぐに出なくても自分の価値は変わらないという感覚が強まるわけだ。
ほんとかなあ。こんなに感情的な自分が、そんな風になるなんて想像ができないけど…
ちょっとくらい信じろよ。俺含め、他のジャパネシアの講師だってみんな同じようなことを経験してるわけさ、ひたむきな姿勢や努力を続ければ、それだけで自分を認められるようになる。他者の評価に左右されず、自分の道を進むための強力な内面的な支えを作ってくれる。今、まさにオマエは自分の無力感に対峙し、少しは鼻をへし折られて、謙虚になれたはずだ。同じような境遇の人を見れば、きっと共感を示すこともできるはずだ。もしオマエが今感じてる停滞期を乗り越えることができれば、もっと他人に優しい自分になれる。そうは思わないか?
そりゃそうだ。同じような境遇の人がいたらその人の気持ちは痛いほどわかるもんな。
それを人間的な成長と言わず何という?他人への接し方以外にも、この先また壁を感じることがあっても「またか…」と淡々と壁を超える努力をできるようになるし、メンタル的にきつい時の回復力も十分に鍛えられる。これは生きる上での大きな価値になる。
そうか、今のこの時期を乗り越える希望をもらえたよ。ちくしょー、もっと早くハリにこのことを聞いておくべきだったな。
ガハハ、よーやく聞く耳を持ったか。ただな、これは今オマエがまさに「停滞期」にいるからこそ、そして、ここまで学習を続けてきたからこそ実感できることであって、何もやってこずに挑戦しなかった者にはオレの言葉だって何も響かず、自分のものにできないワケ。つまり、今のオマエのタイミングだからこそ、新たな学びにつながろうとしてるってわけさ。
く、くやしいけど、説得力はあるな…
停滞できることは続けていること
だから停滞期を上達の鍵と捉え、焦らずに次のステップに向けて進むことが大切なんだな。
焦ってたわ… でも休みたい気持ちとの狭間で揺れてたんだよな。
休んでもいいが、語学の勉強はさぼればさぼるほど能力が落ちるものさ。やめれば停滞もできない、停滞できるってことは、すなわち続けていること。そこをもっと誇っていい。
確かに、それはそうだな、一応ここまで頑張ってきてるわけだし。
永遠の闇もないければ、永遠の光もない。その都度、その都度を楽しめばいいんだよ。
なるほど、そっか… 毎回ハリに聞けば問題が解決する気がするな。困ったらハリのところに行けばいいな。
そう言ってもらえるのはありがたいが、もうそろそろ独り立ちをしてもいいころかもな。
独り立ち…どうやって?
人間って神様のように何でもできるわけでもないし、わからないことだらけ。そうだとわかっているはずなのに、なんで落ち込んだり不安になってしまうんだろうな。
うーん、嫌なことがあったら落ち込むし、わからないことだらけの今の世界だと自然に不安になっちゃうのかな?
確かにな。オレこう思うんだ。心配事や不安なこと、あるいはそれを引き起こすものっていうのは常にどこかにあって、それを感受できるかどうかは自分次第なんじゃないかと。
ほうほう。
危ないことはしたくないし、人から馬鹿にされることはしたくないし、非難もされたくない。そうこうしているうちに人生が終わっていく。不安に押しつぶされる人生はこうなりがちだよな。
それは人間だけじゃなく、生物みんなも同じような感じだろ?
その通り、ただ今の時代はいろんな娯楽にあふれていて、そこから一時的に逃れさせてくれるものが外にたくさんあるんだな。道に迷えばグーグルマップを使えばいいし、わからないことがあれば、検索すれば一発だ。
そうだな、こんなに便利になって、死ぬほどの危険が減ってきている現代になんで心がやんじゃったりするんだ?矛盾してない?
そう、だからきっと、結局、「人間は自分に是(これ)と言える何か」が欲しいんだとおもうんだよな。
これといった何か?んー、表現があいまいだな。もうちょっとちゃんと説明してよ。
今の時代、わからないことがあれば検索するし、いつでも他人の意見を聞くことができる、外の世界にあたかもすべての答えが存在しているような錯覚に陥るよな。
それはそうかも、自分が知らないことは全部ネット上に転がっているともいえるし。
そうなると、外の世界の声がでかくなるんだ。するとどうなるか、内からの声が聞こえなくなってくる。
じゃあ、外の声だけばっか聞いとけばいいじゃん。だって答えは外にあるんだし。
だがそうなると人間はすぐに不安になるんだ。人が心の中の不安を外部の解決策に依存しがちになり、それがかえって不安感を増やしてしまう。自分に是(これ)と言える何かが足りなくなる。外の声に依存してしまった人の末路は自分でも自分の気持ちがうまくつかめずに、自分がやりたいことさえ、外の世界に求めてしまう。
なるほど、その気持ちもわかるな。特にやりたいことはないけど流行に乗ったりして、楽しいフリはいっちょ前にして、自分は取り残されてないぞ、って感じようとするのもそれに似てるのかも。
ああ、そうかもな。外の声が大きくなり、内の声が聞こえなくなる、そして、外に答えがあると錯覚しているから、いろいろ考たり、謎に感じることも少なくなってくる。子供のころは「なんでだろう?」「〇〇ってどうなってんだろう?」って頭の中で永遠考えた経験は誰にでもあるはずだ。ただ、大人になって疑問がわいたら、すぐグーグルだ。純粋な好奇心がなくなった結果、人間らしさのある「ひらめき」やナゾに対する「好奇心」なんてものも消えてしまう。本来科学とかはそうやって発展してきたのにな。
うん、うなずける。でもさー、今の情報があふれるこの時代に内の声を聞くのはムズカシイとおもうんだけどな。
内なる声に耳を傾ければいいんだよ、「人間みんな違う」前提に立てば「みんなこう言ってるけど、自分はこう思うな。」ってことあるだろ?内なる声に耳を傾けることが、純粋な好奇心を維持したり、人間としての創造力を育て続けるための鍵となる。今回のテーマの「学習における停滞期」に関しても同じだ。ジャパネシアに答えがあるかも、と思ってるかもしれないが、あくまでも考え方のヒントしか与えることはできない。だからこそ、徹底的に内省のプロセスを経て学習すること。それが深く学ぶということだ。
ますますムズカシイ… ちょっと具体的に教えてよ、で、どうすりゃいいの?
すぐ外に答えを求めんじゃねえ!オマエは今までの話を聞いてたのかよ。まあ、いい。ちょっとした考え方のコツはもう少し具体的に語れるかもしれん。結局伝わらなきゃ意味ないから、もう少しかみ砕いてみるよ。
純粋な好奇心を取り戻し、内なる声に耳を傾ける
「外部の答えを追い求める」ことで、自分の内面に向き合わずに過ごしてしまうことが、より学習時におけるメンタル負荷を増やしたり、やめてしまう一因になることがある。では具体的にどうすべきかをまとめたからこれを見てみろ。
勉強すれば、テストの結果が気になるし、他人との比較に意識がいくが、そこに囚われると確実に、「学び」そのものに対する好奇心や探求心が薄れてしまう。語学を学ぶ理由が外部に依存する割合が多くなればなるほど、自分のやる気の基盤は脆くなることを覚えておこう。
今日学んだ文法や単語はどこで使えるのか、なぜこの意味が成り立つのか、あるいは、なかなか訳せなくてもすぐに辞書やネットに頼らず自分の頭でまず考えることが大事。深い理解や定着率というのは、このプロセスを踏んだか踏んでいないかで大きく変わるぞ。
今はあなたは停滞しているように感じるかもしれないが確実に、ここまでは来ている実績がある。学習を開始した時から今までの学習プロセスを振り返ってみよう。結局一歩一歩の積み重ね。そのプロセスの途中にいるだけだ。また次の一歩を積み重ねるだけだ。
なんだか今までは「疑問がある状態」「不安な状態」っていうのは、「敵」かなんかだと思って避けようとしてたんだけど、そうじゃないんだね。
その通り、真正面から向き合えば人生のたいがいの問題は解決していくもんだ。そのポテンシャルは自分の中にある。外に答えを求めすぎちゃったら、そのポテンシャルも伸ばせないし、自分に対する不安はますます増えていくことだろう。だから大事なのはそこに立ち向かう勇気だな。
結局「勇気」かよ…
結局は勇気の話かよ。なんだかなァ~。
なんだよ。じゃあ、オマエ、「勇気」ってなんだ?
要するに、大胆に、怖いもの知らずに何かやることだよ。
違う。勇気とは、恐れや不安を感じながらも、それを乗り越え、自らの信念や目的に従って行動する力のことを言う。オマエ、ミケランジェロの「ダビデ像」知ってるな?
ああ、あの「イケメン全裸マッチョ」?
まあ、そうだな… ほかにも、「ダビデ」っていうのはミケランジェロ作品以外にも多くの人が作ったり、絵にかいたりしている。
ああ、そうなの?オレが知ってるのはミケランジェロだけだな。
そうだろ、ミケランジェロが彫刻した「ダビデ像」は、まさにゴリアテに立ち向かおうとする瞬間を捉えたものなんだ。彼が選んだ場面は、ダビデがゴリアテに勝利した後の栄光の姿ではなく、戦いに臨む前の緊張感と決意の瞬間だ。ミケランジェロは、この「戦おうとする勇気」こそが真の英雄的な瞬間でだとを見抜いていたんだな。
ええ、そうだったの?ただカッケー肉体美を彫りたかっただけかと思った。
それもあるかもしれないが、本質的には持っている石をゴリアテに投げる決意をした静かな瞬間を表現ているからこそ、彼の緊張した筋肉や集中した表情にその緊張感が反映されているわけだ。そこに勇気が強調されている。
つまりダビデがゴリアテに勝ったからじゃなくって、恐れを乗り越えて戦おうとするその姿勢が、ミケランジェロにとって最も象徴的でかっこいい部分だったってことか、それに多くの人が共感したからこそ今でもあの像が印象的ってことか。そう思うとカッケー!
オマエの言う通り、当時の他のダビデ像とは異なり、勝利の瞬間や栄光に焦点を当てず、あえて「勝利する前の決断」を強調しているからこそ、ミケランジェロのダビデ像が芸術的にも革新的であったわけだな。
なるほど、なんか、「勇気」という言葉にある種の陳腐さを感じた自分が恥ずかしい…
まあそれも無理はない、今の社会ってのは即席の「結果」や「成功」に焦点が当たりすぎてるフシがある。ただ、昔も今も、真の勇敢な行為ってのは、結果にかかわらずすばらしいことに変わりはない。
試合に負けたアスリートも同じだよな。
そう、だがどうだ、その勇気が軽く見られている。その理由の一つが「結果主義」に偏ることだ。勝利が保証されない状況でも、恐れを抱きつつも行動を選んだことが、勇気の最も価値ある要素ってことを人は忘れがちだ。
なるほど、あまりに結果に囚われると本質を見失ってしまうんだな。
そう、実はアリストテレスも「勇気」を徳の一つとして挙げているんだ、勇気は「恐れないこと」ではなく、「正しい理由で行動すること」としている。今の時代においても、勇気は他人からの評価を気にせず、自分自身の価値観に従って行動する姿勢にあるわけだ。
なるほど、そこには外の価値基準は入ってないね。
そうだ。勇気を軽視することは、真に価値ある行動の本質を見逃すことなんだ。勇気は結果ではなく、その「行動しようとする瞬間」にこそ宿るもの。今の停滞期や新たなチャレンジをする際に、自分が戦っていく姿勢を見せれるかがカギになる。勝つか負けるかなんてどうでもいい。オレはもう一度立ち上がる決意を待っている。
よっし、もう一度立ち上がってみせるぞ!
その意気だ。内側の声を聞き、しっかり悩み、もがいて立ち上がる。実際に行動すれば道は開けるもの。そのポテンシャルはみんな持っている。そのポテンシャルを活かし、勇気をもって行動する姿勢を持ち続けることで、自分に是(これ)と言える何かがきっと見えてくるはず。迷わず行けよ、行けばわかるさ。
急に猪木?!
目の前に立ちはだかる壁なんてドロップキックしてやれ!
おあとがよろしいようで
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